Michikusa道草

ふじやま

富士の山、登りてみれば何もなし、善きも悪しきもわが心なり。(伊藤食行)

紅顔の美少年だったわたくしもいつの間にかおっさんになり天命を知る歳になったので、一念発起して富士に登って参りました。

山開き直後の梅雨のさなかだったので恒例のご来光ツアーは始まっておらず、「登る人の八割が外国人なのだよ」とパトロールの兄ちゃんが言っていました。

 

七合目、八合目と死に物狂いで登っていると、目の前をちらつくものは、やたらとでかい異国の方の尻ばかり、自分がまるでヨーロッパの山にでも登っているかのようでした。ヨーロッパ行ったことないけれど。

 

“山開き”はされたものの山頂ではまだ“トイレ開き”がされていませんでした。それを知ったのは頭も体もぴよぴよ状態になった九合目で、あ~、ここからさきは厳しい時間をすごすのだなぁと思いました。万が一の時にはトイレがある九合目まで走って戻って来るか、もしくは人がごちゃごちゃいる場所ですべてをさらけ出し、尻までさらけ出し、人間の尊厳を失うかの二者択一になります。

 

「我慢できひんやん普通!」

山頂でご来光を待つ登山客たちの間には、富士山登ったぞ!という喜びよりも、ここで尻までさらけ出すのは絶対に嫌だ!という苦しみの方が勝っているという微妙な空気が流れておりました。そんな崖っぷちのポニョ、もとい、崖っぷち状態のなか、わたくし自身はなんとか、尻までさらけ出すことはなく人間としての尊厳を保つことが出来ました。しかしそのために持っている運を使い切りました。

 

現在の悩みは、運がなくなった以上、この先をどうやって乗り切ってゆくかです。少なくとも年末ジャンボに手は出せない、馬券買えない、舟券買えない、インディアン嘘つかない、町内会の役員選出じゃんけんに参加しない、麻雀できない、囲碁できない、将棋できるけど弱すぎて小学生にも負ける。

確かなことは、わたくしは町内会の交通部長はしたくないし尻までさらけ出すことはもっとしたくないということです。

話がそれました。

確かなことは、人間の尊厳は携帯トイレにあるということです。

 

この先、もう二度と登ることはないでしょう、何かの手違いで登ってしまった暁には、人間としての尊厳を失うことになるでしょう。

 

富士の山、登りてみればトイレなし、でものはれものところかまわず。

お墓参り

お盆はお墓参りに行きました。きれいだけど一応お墓を掃除し、お線香をあげました。不安が多いご時世だし、まあまあ苦労もしてるけど私や家族が何とか生きているのはご先祖様、おじいちゃん、おばあちゃんがいつも見守ってくれているおかげだと思い感謝を伝えました。さすがにお盆はお墓参りに来ている方が多くどのお墓もお花が供えられていました。

近くのお墓から「…がほしいのでよろしくおねがいします」とかわいらしい子どもの声が聞こえました。まだ小学生になっていないであろう男の子でした。なるほど、子どもにとっては神社、お寺、教会、お墓、サンタクロースは、目を閉じて手を合わせてお願い事をして叶えてもらうという意味では同じような存在、場所や対象は問わないのかもしれません。ご先祖様のお墓では今でこそ感謝の気持ちを伝えることができますが、子どもの頃は何となくお盆、お彼岸、お正月前に両親について行っただけの場所でした。私もお願い事をしていたかもしれません。今ではお盆やお正月でなくても時々訪れたくなる場所です。

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